BFF東京について私たちが知っている二、三の事柄

益田 耕平

ニューヨーク発の映画祭「バイシクル・フィルム・フェスティバル(BFF)」が9月8日から1カ月間、日本で開催される。コロナ禍のためオンラインのみでの開催となったが、2015年以来、7年ぶりにあの熱狂が帰ってくる。

BFFは2001年にニューヨークのストリートで誕生した。自転車をキーワードに世界中からさまざまなジャンルのショートフィルムが集められ、映画だけでなく、アートや音楽を通して自転車の魅力を発信するプラットフォームとして、サイクルカルチャーを牽引してきた。日本には2005年11月に初上陸。これまでに100を超える都市で開催され100万人以上が参加した。

BFF東京2022の開幕を前に、日本開催第一回目で初代コーディネーターを務めたメッセンジャー会社クリオシティ社長の柳川健一さんと、自転車コミュニティと深く関わってきた自転車ショップDEPOTの湊誠也さんに、BFF東京勃興期のエピソード、サイクルカルチャーの変遷、これからのBFFの可能性を語ってもらった。

BFF東京の夜明け

東京開催の発端となったのは、柳川さんがネット上で見つけた2002年のBFFに関するニュースだった。

「自転車で、映像があって。最高じゃないか」

2003年に創設者のブレント・バーバーに連絡すると、興奮した様子で電話がかかってきて「日本の作品を出して!」と伝えられた。民放の某旅番組の制作に携わったこともあるという柳川さんは、2004年の京都ロコ(2001年に始まったメッセンジャーによるレースイベント。初回は「全日本トラックバイク選手権」という名称でスタートした)を撮影し、2005年にドキュメンタリー「メッセンジャー・ホリック(MSGR-Holic)」を完成させた。

そしてBFFに送ると、ブレントが「秋に東京でやりたい」と言い出した。

小さなイベントとして始まったBFFは時代の流れに乗り、2005年には大きく成長していた。その年のアメリカでは、ニューヨーク、ロサンゼルス、サンフランシスコの3都市で開催され、ゲストパフォーマーとして、ブロンド・レッドヘッドやウータン・クランらが参加し、会場には、ジム・ジャームッシュなどの著名人の姿も見られたという。

柳川さんは初代コーディネーターとなって東京開催に向けて奔走し、BFFはいよいよ2005年秋に日本に初上陸。BFF東京2005は、六本木のSuperDeluxで2日間開催され、600人を動員した。いずれの回も満席だった。翻訳も担当した柳川さんは、当時の慌ただしさをこう振り返る。

「ギリギリまで翻訳して、レンダリングし終わったものを“取って出し”だった。上映に間に合わず、司会が裏話をして繋いだときもあった」

翌年の2006年には規模を拡大し、渋谷のUPLINKと原宿のEX’REALM、代官山のBALL ROOMの3会場(パーティー会場となった恵比寿のMILKも加えると4会場)に。4日間開催となり、動員数もおよそ2000人に膨れ上がった。代官山の会場で準備をしていた柳川さんが外に出ると、人も自転車もものすごい数で、自転車の列が代官山の駅の方まで続いていたという。

メッセンジャーたちの同窓会

このサイクルカルチャーのムーブメントを支えた一つの原動力となったのが、メッセンジャーたちだった。

日本のメッセンジャーたちがその結束を強めたのは、2000年にフィラデルフフィアで開催されたメッセンジャーの世界大会CMWC(Cycle Messenger World Championships)。それぞれ口コミで伝え聞いて参加し、海外で集結した。日本ではなかなか会うことがない彼らがCMWCの度に「久しぶり」と言って再会する。同窓会のような意味もあるという。

「その熱量を日本各地に持ち帰って、いつか日本でもやりたいというのがモチベーションにあった」と柳川さん。「マイナーなので、地位も向上させて、仕事も増やしたいというのもあった」

CMWCは、メッセンジャーたちが集い、技術を競ったり交流したりするイベントで、1993年にベルリンで始まった。ロンドンやトロントなど世界各地を毎年巡回し、2009年には柳川さんたちの尽力が実って東京で開催された。そして2023年、14年ぶりの日本大会が横浜で開催される。

柳川さんたちメッセンジャーにとって「京都ロコは体育祭、BFFは文化祭」という位置づけだ。そもそも、柳川さんが最初にBFFに出品した「メッセンジャー・ホリック」の題材のとなった京都ロコは、CMWCの日本招致に向けた足がかりとして始まったもの。まさにCMWCとBFFを結びつけることになったイベントだ。

CMWCや京都ロコではメッセンジャーが主役だが、一方で、彼らは日々、地道にデリバリーをしている。

柳川さんは「インフラだと思ってやっている」と自負している。「台風や大雪で僕らが行けないとなると困る。当てにされているから。山手線が止まって困ってしまう、あの感覚に近い」

クリオシティでは、大雪の日でも遅刻はしない。電車が止まるのに備えて、始発で出社したり、前日に都内のビジネスホテルに泊まったり。プロ意識の塊だ。

東日本大震災の日も、メッセンジャーたちが夕方まで走りきった。信号が消え、エレベータが止まっても、ビルの27階まで上り、非常階段で受け取りのサインをもらった。

「天気に関係なく、とりあえず行く」。非常時にこそ燃えるのがメッセンジャーらしい。

MASHは二度ベルを鳴らす

千葉県市川市で自転車ショップを営む湊さんも、メッセンジャーバッグを作っているフィラデルフィアの知人と一緒に京都ロコへ参戦したのをきっかけに、メッセンジャーコミュニティとの関わりを深めていった。そして、2003年のCMWCシアトル大会に参加した際、のちにMASHのメンバーとなる一人に出会った。そのときの彼が言葉が今でも忘れられない。

「実は今、かっこいい映像を撮ってる。そのうち世界中がびっくりするぜ」

その映像とは、2005年に世に出た「MASH」だった。MASHはその年に結成されたピスト乗りのチームで、彼らが街中を疾走する映像はサイクリストのコミュニティを超えて世界中に衝撃を与えた。

サンフランシスコの古い映画館でプレミア上映され、その場にいたという湊さんは「日本からも自転車屋やメッセンジャー、スケーターたちが集まっていた。プレミア後には公園に人が集まり、なんとなく同窓会のような雰囲気だった」と当時の興奮を振り返る。

2007年にはよりブラッシュアップされた完成版「MASH」が公開され、世間に街乗りピストブームが広がっていく。エキストラ映像では撮影風景も窺い知ることでき、スピード感溢れる映像の撮影にはどうやらスクーターが使われていたようだ。

当時の撮影手法を語るにおいて外せないのは、長年メッセンジャーのイベントを撮影してきたルーカス・ブルネルだ。彼をフィーチャーした「Line of Sight」では、彼がカスタマイズした「ヘルメット・カメラ」が映し出される。

POVスタイルのアクション映像は今ではすっかり見慣れてしまったが、動画を撮れるGoProが初めて登場したのが2006年だったことを考えれば(2004年にリリースされた初代GoProは35mmフィルムカメラだった)、「ヘルメット・カメラ」の革新性は賞賛に値する。

ヘルメットにカメラが付いているため、当然、頭を動かすと映像もぶれてしまう。彼は真っ直ぐ前を向いて目だけを動かして撮影していた。柳川さんは嬉しそうに「ものすごい衝撃だった」と笑う。

2007年には、もう一つの映像が世界を驚かせた。その名は「ファスト・フライデー(Fast Friday)」。ファースト・フライデー(First Friday)とは、シアトルで毎月第一金曜日にピストバイク愛好家が集い、技を競い合うイベントで、MASHメンバーの一人でデザイナーのダスティン・クラインが始めたもの。その様子を彼の友人でもあるデヴィッド・ロウ監督がドキュメンタリー映像にまとめた。徐々にコミュニティが作られていく様子に、湊さんも柳川さんも「本当に泣ける」と口を揃える。

そして、世界中のサイクリストたちが「ファスト・フライデー」を見て、そのコミュニティがさらに広がっていったという。

湊さんは「世界中どこでも、メッセンジャーだと受け入れてくれるという本当に特殊な関係性がある」と熱く語る。旅先ではお互いが泊まる場所を提供しあい、湊さんもメッセンジャー仲間が日本に来ると聞くと、「うちに泊まれよ」と歓迎してきた。「日本の窓口」である湊さんにお世話になったメッセンジャーは数知れない。

ブレーキに気をつけろ

しかし、そんな熱狂に水をさしたのが、世界中に広がったノーブレーキ自転車への規制だった。日本でもメディアがノーブレーキ自転車の事故やその危険性を連日報道するようになった。

「作りたい人も増えてきて、乗ってる人もたくさんいて、あーかっこいいな、楽しそうだなって、日本もそこに向かっていたはずが…」。湊さんは、若者が一気に乗らなくなっていったのを肌で感じた。「ガーンと盛り上がった後、いきなり落ちていった」

その一方で、サイクルカルチャーの裾野は着実に広がっているという。湊さんは「それまでなかったMASHのような共感しやすいものができたおかげで、そこから競技に進んだ人もいる」と話す。「メッセンジャーもピストもBMXもマウンテンバイクも正しく育ってきている。もちろん大小はあるが、お互いにちゃんと生きている」

また、ロードレースを題材にした漫画「弱虫ペダル」(2008年から週刊チャンピオンで連載開始)の映画版が2015年に公開された頃から、ロードの業界が盛り上がっているという。

そして、湊さんは最近、ある変化に気づいた。

「また少しずつ若者たちが、ひっそりとだけど、自転車とカルチャーと楽しんできている」

昔はアイコンのような存在がいて、服や自転車を模倣することが多かったが、今はよりDIYで自由な表現をしているという。

「自分たちでカスタムして、好きなように乗ることがかっこいいんだ!」。彼らのそんな空気を湊さんは感じている。

自転車がつなぐ私と世界

そのような変遷を経て開催される今回のBFF東京2022。

ニューヨークの女性メッセンジャーたちの葛藤を描いた「Huntress」、片足のサイクリストに密着した「Leo Rodgers」、ラゴスのストリートでBMXに乗る若者たちに迫った「Lagos BMX Crew」、ルワンダで虐殺の歴史に向き合いながらナショナルチームに入ったロードレーサーを追いかけた「King of the Mountain」など、社会性のある多様な作品がラインナップされている。

湊さんは、自身が運営する塾で中学生たちにこれらの上映作品を見せたという。中でも議論が盛り上がったのが、アムステルダムを舞台にしたドキュメンタリー「Mama Agatha」。ガーナ人女性が移民の女性に自転車の乗り方を教える心温まる物語だ。

「なぜオランダっていう国でそんなことができるのに、日本ではできないのか」

そんなことをみんなで話し合い、オランダが移民を受け入れインクルーシブな社会を目指してきたこと、一方で、移民排斥を訴える右翼勢力の台頭などの課題も抱えていることなどを一緒に学んだ。

「サラッと流してもいいようなところもちゃんと見ていて、私が気付かなかったことも教えてくれた」。湊さんは、映画で描かれていることの背景まで考えようとする彼らの姿勢に手応えを感じた。

湊さんはBFF東京2022に期待を込める。「自転車の可能性、自転車を通して何かを知る可能性というのを見せてくれてるんじゃないかな。若い子どもたちに今こそ見てもらいたい」

ブレントがBFFを始めたのは、自転車に乗っているときにバスに轢かれたというネガティブな経験をポジティブなものに転換しようという思いからだった。

今回の上映作品でも、登場人物たちの多くは自らの置かれた状況の中でもがきながらも、自転車を通して人と繋がり、社会と関わりながら懸命に生きている。私たちは自転車が疾走する爽快な映像を通して、現実の世界で起きていることの一端を垣間見ることになる。あなたの心に響くものがきっと見つかるのではないだろうか。